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「日本の中世文書WEB」総説

収録文書の全体 ―日本の「文書史」の中で―

この「中世文書WEB」には、現在42通の文書が収録されています。年代順に並べると別表のようになりますが、全体として、日本の中世文書の概要が分かるように選んでいますので、以下、日本の「文書史」を振り返りながら、それぞれの文書を選んだ意図や、その全体の中での位置付けを説明します。(所蔵者について記載の無い文書は、すべて国立歴史民俗博物館蔵です。)
〔文責:小島道裕〕

1.古代から中世へ ―「官」の文書と個人の書状―

<律令の公式様文書>

日本の中世文書の前提には、当然古代の文書があります。中国に倣って、7世紀末から整備された基本法「律令りつりょう」の「公式令くしきりょう」には、文書の書式が定められており、「公式くしきよう文書もんじょ」と呼ばれます。奈良時代、8世紀の「正倉院しょうそういん文書もんじょ」などに多くの実例も残っています。ここに定められているのは、行政組織の文書に関する規定ですから、基本的に、

  1. 上から下への命令(「」など)
  2. 下から上への申請や報告(「」など)
  3. 上下関係の無い組織同士の意思疎通(「」「ちょう」など)

という三つのパターンと、それぞれに応じた書式があります。律令国家の官僚機構による行政は、中世には形骸化していきますが、文書の書式としては、朝廷以外の文書にも、変質しつつ継承されていきました。

かつては、律令の文書がすなわち古代の文書として説明されていたのですが、実際には、律令の規定には無い文書も多く存在し、特に書状系の文書は、個人の出す文書として、行政的な場面でも古代から使われていました。書状は、法的な規程は無いのですが、「しょ」と呼ばれる中国の礼法書を参考に、今日の書状にも続く様式が作られていきました。このように、
A:朝廷の官僚機構に由来する文書(「官」の文書)
B:個人間の文書として発達した書状
この二つの系譜で考えると、中世の文書も理解しやすいと思います。以下、具体的な例で説明します。

<「官」の文書の略式化>

まず、本来の律令文書(公式様文書)の実例を挙げると、「上から下」への命令文書として知られるのが「符」という様式です。公式様文書は、文字の全面に印が押されているのが特徴で、書かれた文字を封じて、改竄を防止するためと考えられています。参考図は、民部省が大和国司に出した符の例です(「日本の中世文書WEB」には収録されていません)。


(参考)「民部省符」 延長四年(926)二月十三日 奈良国立博物館蔵(ColBaseより)

・「かん宣旨せんじ弁官下文べんかんくだしぶみ)」
しかし、このような律令文書は、発行に至る手続きが煩瑣であるため、押印を略した文書様式として、平安時代に「官宣旨(弁官下文)」と呼ばれる様式が出現します。

官宣旨(弁官下文)
(図1) 1「官宣旨(弁官下文)」(栄山寺文書) 保元三年(1158)八月七日

冒頭に「弁官べんかん くだす 紀伊きいのくに」とあり、中央の役所である左弁官が、紀伊国に「下す」と、まさに命令を下した文書です。文字は上の方が大きく、下に行くほど小さいのも、そのことを可視化しています。

律令官制に基づく文書なのですが、しかし文面に印が押されておらず、本来の律令文書とは異質なものです。官僚機構の公印ではなく、担当者個人の署名のみで文書の権威を担保するという方式は、中世的なものと言えるでしょう。「下文くだしぶみ」と言われるこの文書は、命令を伝える文書様式として便利だったため、朝廷以外でも、中世前期に多用されることになります。

<メモの公験くげん化―「宣旨」と「口宣案」>

律令文書の体系からの変化として挙げられる事の一つに、官僚機構における正規の手続きを経て発給されるのではない、手続きのための途中のメモが、実質的な公文書として受給者に渡され、後の証拠になる文書(公験)として機能するようになる、という現象があります。

・「宣旨せんじ」―受命記録
その一つが「宣旨」です。これは宛先の無い、誰が誰からどのような命令を受けたか、という受命記録で、本来はメモ的な文書です。律令にも書式は無く、律令以前からの、口頭の命令授受から発生した文書と考えられます。

官宣旨(弁官下文)
(図2) 7「宣旨(弁官宣旨)」(普成仏院文書) 正応五年(1292)八月二十一日

・「口宣くぜんあん」―手続き中であることを示すメモ
宣旨と同様の、手続き途中のメモ的な文書で、そのことを更に明示しているのが「口宣案」と呼ばれる文書です。中世においては、これが朝廷の実質的な辞令として機能しました。文字通りの口頭の指示(「口宣くぜん」)をメモしたのが「口宣」という文書ですが、それを写して受給者に渡した物が「口宣案」です。右上に「上卿しょうけい 〇〇」と、手続きを担当している公卿の名前が小さく書いてあるのが特徴です。「案」は写しという意味ですが、機能としては正文、という不思議なことになっています。

口宣案
(図3) 27「口宣案」 天文三年(1534)三月二日 (げんじょ任権法印)

<書状とその公験化>

一方で、個人の文書である書状も発達して、貴族の間での日常的な意思伝達の手段となり、有力者の出した書状は、やがて実質的な公験くげん(権利の証拠となる文書)としての意味を持つようになります。国家の官僚組織が弱体化し、個人間の関係が公的なものとなる、そのような時代としての中世には、個人の立場で出す書状は、適合的な様式であったと言えます。

まず、平安時代末期の書状の例を二点挙げています。

「2 平宗盛書状」は、太政大臣となった平清盛の嫡男宗盛が、清盛の意を受けて、藤原ふじわらのなりつなという後白河院近臣の所領について口添えをした自筆書状です。叔父の平時忠たいらのときただに宛てられた、身内同士の仮名で書かれた私的な書状なのですが、権利保障の証拠文書になるので、おそらくこの文書を与えられた済綱の側が、「仁安二年」と後で年を入れています。書状が公験として機能する、その過程を理解できます。

口宣案
(図4) 2「平宗盛書状」 仁安二年(1167)九月十八日

「3 源義経書状」は、女院八条院との所領の管理をめぐるやりとりです。こちらは、使者の派遣という、後に残す意味が無い内容であるため、保存されずに、一括の反故ほごとして高山寺に寄付され、文書の裏が聖教の写本に使われて残ったものです。そのような「紙背しはい文書もんじょ」の例としてもよく挙げられる物です。

源義経書状
(図5) 3「源義経書状」 (文治元年(1185))六月二十八日(高山寺文書)

天皇が自ら書いた文書も収録しています。次項で述べるように、天皇は、通常は「綸旨」や「女房奉書」のような奉書の形で文書を出しますが、特に意味がある場合には自筆の書状を書くこともあり、「宸翰しんかん」と呼ばれて重視されました。13は、後醍醐天皇の訓戒、「置文おきぶみ」的な文書で、いかにも帝王然とした筆跡も見所です。通常は署名を何もしないのですが、これは花押が書かれている珍しいものです。

後醍醐天皇自筆書状
(図6) 13「後醍醐天皇自筆書状」 元弘三年(1333)九月二十二日

<奉書形式の書状系文書>

以上の書状は、個人の文書として、全文自筆で、自分の立場で書いた物です。しかし、天皇などの身分の高い人物は、自らの名前で書状を出さずに、秘書が主人の意を奉じて出す「奉書ほうしょ」の形で文書を発給し、これが公式にも権威のある文書として発達します。

奉書は、主体となる人物の身分によって呼び方が違い、下記のようになります。
・天皇:綸旨(読み方は、「りんじ」または「りんし」)
・院 :院宣(いんぜん)
・その他の皇族:令旨(「りょうじ」または「れいし」)
・三位以上の貴族:御教書(「みぎょうしょ」または「みきょうじょ」「みきょうしょ」)
いずれも、主人の意思を奉じる、という「奉書文言」が末尾に書かれ、その意思は、綸旨では「天気」、院宣では「院御気色」といった語で表わされます。また、その語に対しては、書式の上で尊敬が示され、綸旨・院宣では改行して冒頭に出す「平出へいしゅつ」、令旨以下では、一字空ける「けつ」となります。

綸旨の料紙には、「宿紙しゅくし」と呼ばれる、薄墨色の漉き返し紙(再生紙)が用いられ、綸旨の紙というイメージが定着します。しかし、これは天皇の秘書であった蔵人が用いた紙で、蔵人の出す他の文書にも使用されています。

後醍醐天皇綸旨
(図7) 12「後醍醐天皇綸旨」正中三年(1326)三月十七日
料紙に「宿紙」が用いられ、「天気」は平出になっています。

光厳上皇院宣
(図8) 16「光厳上皇院宣」建武三年(1336)九月二十三日
料紙は「宿紙」ではなく、「院宣」は平出になっています。

中宮(珣子内親王)令旨
(図9) 14「中宮(珣子内親王)令旨」(建武二年( 1335 ))二月一日
「令旨」への敬意は、改行(平出)ではなく、上を空ける「けつ」にされています。

・「国宣こくせん」(御教書みぎょうしょ
奉書形式の文書で、三位以上の貴族が出したものは「御教書」と呼ばれます。「国宣」もその一つで、国に対する実権を与えられた知行国主ちぎょうこくしゅが、現地の国務に関して発給したものです。

ここに挙げた例では、意思の主体である北畠きたばたけ顕家あきいえが、そで(文書の右端)に花押を据えています。

陸奥国国宣
(図10) 15「陸奥国国宣」(北畠顕家袖判) 建武二年(1335)十月一日

・「女房にょうぼう奉書ほうしょ
中世には、宮廷や摂関家、将軍家などで、女官が奉じた奉書も発行されました。仮名文字の「散らし書き」という、独特の書き方で、綸旨などと共に、主人の口頭の指示を伝える文書として、特に室町時代以降さかんに用いられました。

女房奉書
(図11) 25「女房奉書」(「兼顕卿記かねあききょうき」の中に貼り継がれたもの) 文明十年(1478)七月十日条

2. 鎌倉幕府の文書

12世紀末に源頼朝が開いた鎌倉幕府の文書も、朝廷の官僚組織に基づく「『官』の文書」系の文書と、書状系の文書という、二つの系譜を引いており、そのグラデーションとして理解することができます。

・将軍の「袖判下文そではんくだしぶみ
「4 藤原頼経下文」は、「官宣旨(弁官下文)」に始まる命令文書「下文」の一種です。将軍が袖に自ら花押を据えた「袖判下文」と呼ばれるもので、花押を「袖」に書くのは最も尊大な形式です。将軍の権威、および将軍との個人的なつながりを示す、まさに幕府文書に適合的な形式と言えます。
この文書の発給者である藤原頼経ふじわらのよりつね九条頼経くじょうよりつね)は、八才で元服、この文書の当時まだ十四歳ですが、幕府を創始した源頼朝と同じ様式の文書を出すことで、将軍としての権威を示すことができました。その後、室町幕府を開いた足利尊氏も、これと全く同じ様式の「袖判下文」を発給しており、鎌倉幕府における頼朝を意識していることが窺えます(図16)。

藤原頼経下文
(図12) 4「藤原頼経下文」 寛喜三年(1231)二月二十四日

・「将軍家政所下文しょうぐんけまんどころくだしぶみ
源頼朝は、御家人への所領安堵の文書を、当初は自らの花押を据えた「袖判下文」で与えたのですが、その後、家政機関である「政所まんどころ」の発給する文書に切り替えます。幕府としての組織的な運営を図ったと言えますが、「将軍家」という家の事務所が発給する文書がすなわち幕府の公文書であることには、やはり主従関係で維持される武家社会の性格が表われています。なお、政所は官位が三位以上でないと設置できなかったため、先の藤原頼経下文は、まだ若年で三位に達しておらず、政所を持てなかったために自ら発給した、という側面もあります。

藤原頼経下文
(図13) 6「将軍家政所下文」 正応四年(1291)十二月七日

・「関東かんとう下知状げちじょう」と「関東かんとう御教書みぎょうしょ
以上の、将軍の下文と、将軍家政所下文は、系譜としては律令国家の文書に由来するものですが、幕府の文書では、書状系ないしその影響を受けた文書も使われるようになります。

「関東下知状」は、下文と、書状形式の一つである御教書(三位以上の人物が出す奉書)の中間的な物と言え、鎌倉幕府で実質的な権力を持った執権しっけんが、将軍の意を奉じる形で、しかし公式な命令文書として、裁判の裁許状や所領安堵などに用いたものです。

藤原頼経下文
(図14) 10「関東下知状」 乾元元年(1302)十二月二十三日

「関東御教書」は、より書状に近い形の将軍の意を奉じた文書で、御家人への連絡などに用いられました。書止めが命令口調の「執達しったつくだんの如し」であり、日付に年が書かれていること、あるいは署名が「陸奥守」のような朝廷の官途名かんどめいであることが、公文書であることを示しています。それを除けば、ほとんど書状と変わらない様式です。

関東御教書(複製)
(図15) 8「関東御教書(複製)」正応六年(1293)三月二十一日
(原品:東京大学史料編纂所蔵 島津家文書)

3.室町幕府の文書

室町幕府においても、古代文書以来の「『官』の文書」と「書状」という二つの系統が認められますが、次第に前者はすたれて、書状系の文書が中心になっていきます。また、鎌倉幕府に比べて将軍親裁の傾向が強く、将軍自身の出した文書が重要な意味を持ちました。

・下文と下知状
室町幕府においても、創設者の足利あしかがたかうじは、鎌倉幕府における源頼朝に倣い、領地の給付や安堵に袖判下文を発給しました。しかし、三代義満より後は発給されなくなります。

足利尊氏下文
(図16) 20「足利尊氏下文」 観応二年(1351)二月十六日

鎌倉幕府で裁許状などに使用された下知状は、室町幕府でも用いられ、将軍を補佐する管領が将軍の意を奉じて発給しましたが、尊氏の弟で政務の中心となった足利直義は、そのような奉書形式をとらず、自らの名によって直状の下知状を出しました。しかし、室町幕府では、下知状も次第に用いられなくなり、書状系の文書が多用されるようになります。


(図17) 19「足利直義下知状(裁許状)」 貞和二年(1346)十月七日

・書状系の文書 ①直状じきじょう ―「御判御教書ごはんのみぎょうしょ」と「御内書ごないしょ
室町幕府では、次第に書状系の文書が公的な場面でも多く使われるようになります。将軍は、自らの名で出す直状の形式で、「御判御教書」や「御内書」と呼ばれる文書を発給しました。

「御教書」は、2で述べたように、本来は奉書の一種を指す名称ですが、将軍に対する敬意の意味で、直状である書状系の文書に使われるようになったものです。(歴史的な名称として用いていますが、学術的には整理が必要な用語です。)

![足利尊氏御判御教書](足利直義下知状(裁許状)
(図18) 21「足利尊氏御判御教書」 観応二年(1351)十月五日

御内書は、年の記載も無く、さらに書状に近いものですが、書止め文言には「恐々謹言」のような相手を尊重する言葉が無く、「件の如し」で終わる尊大な物で、やはり公的な文書として用いられました。「尊大な書状」というその様式は、織豊政権や徳川幕府にも受け継がれていきます。

足利義晴御内書
(図19) 26「足利義晴御内書」 年未詳(16世紀前期)十二月十四日

・書状系の文書 ②奉書 ―「管領かんれい奉書ほうしょ」と「奉行人ぶぎょうにん奉書ほうしょ
将軍の意思を奉じて、その執行を命じる文書で、室町幕府では、管領の出したものと奉行人の出したものがあります。

23は管領奉書の例で、同じ奉書である、鎌倉幕府の「関東御教書」などに近いことが分かります。

室町幕府管領奉書
(図20) 23「室町幕府管領奉書」 永和二年(1376)四月十二日

幕府の実務を担った奉行人の奉書は、被支配層の百姓にも宛てて出され、多数の文書が現存しています。通常奉行人二名の連名なので、「奉行人連署奉書」とも呼ばれます。相手によって厚礼・薄礼の使い分けを行なうために、二種類の書式があります。

一枚の紙全体を使う「竪紙たてがみ」と、上半分を使う「折紙おりがみ」は、その使い分けの一つで、本来は礼紙らいしを省く略式の意味だった「折紙」は、その後、武家の間で広く使われるようになっていきます。

室町幕府管領奉書
(図21) 24「室町幕府奉行人連署奉書(竪紙)」文明四年(1472)三月二十六日

室町幕府管領奉書
(図22) 30「室町幕府奉行人連署奉書(折紙)」 天文二十二年(1553)六月二十二日

・「ぐん忠状ちゅうじょう」―複合文書
一つの文書の中に、申請と承認のような、二つの機能が盛り込まれたものを「複合文書」と呼びます。合戦の際に、自らの功績を書き上げて大将に差出し、大将がそれを認めるサインをして戻した「軍忠状」は、その典型的なものです。武士団の自立性が高かった南北朝期に多く出されています。文書がどのように移動して機能するかを考える上で、興味深いものです。

島津忠兼軍忠状
(図23) 17「島津忠兼軍忠状」 建武三年(1336)十月日

奥(文書の左端)に、別筆で「承候訖(花押)」とあるのは、文書の内容を承認した旨の、大将(赤松円心)のサイン。

4. 相対あいたいの文書 ― 契約と証拠

ここまでは文書を、組織における意思伝達の「『官』の文書」と、個人の意思を伝える「書状」という二つの系譜で整理してきましたが、機能的に系統を異にする文書として、相対の関係で取り交わす契約書の類があります。

・土地売券
中世の契約文書で、よく目に付くのは土地売券です。寺院が寄進などで土地を集積し、蓄積された大量の売券が、近代に入って廃仏毀釈などの影響で流出したためと思われます。

土地売券は、中世においては民間の文書ですが、本来、土地の売買は現地の役所への申請が必要だったため、様式的には、公式様文書の「」の系譜を引いており、平安時代の売券には、相対でも、末尾に「以解(もってげす)」と書かれている物があります。律令国家の行政が機能しなくなった後は、売り主と買い主の間で完結する契約書として、この書式が定着します。

中世、特に鎌倉時代は女性の地位が高く、自ら財産を処分できたため、女性が主体となる文書がかなりあり、仮名文字が使われるのも特徴です。

尼しやうせう領地売券
(図24) 11「尼しやうせう領地売券」 延慶四年(1311)十月七日
仮名交じりで書かれた女性の売券の例。

譲状ゆずりじょう処分状しょぶんじょう
親が子へ財産を相続させる際などには、譲状ないし処分状と言われる文書が作られます。

9の「盛秀田地銭貨処分状案」は、先の11に付随する文書で、「尼しやうせう」が、自分がこの土地の所有者であることを証明するために、父親から与えられた文書を写した物です。父親の自筆部分が仮名文字なのは、個人的な文書であるためと思われます。


(図25) 9「盛秀田地銭貨処分状案」 永仁二年(1294)四月二十四日(2枚目は裏面)

22「能登入道了源譲状」は、武家の親が娘に地頭じとうしきを与えた譲状です。対象の人物は「女子」となっていますが、これは、女性は公式の名前(実名じつみょう)が無いためで、文書では、女性は、幼名や法名、ないし父親の姓で「〇〇氏女うじのにょう」などと表わされます。
能登入道了源譲状
(図26) 22「能登入道了源譲状」 康安二年(1362)八月二十八日
「女子」(名は「いね御前」、今は法名)に対する父親の譲状。

起請文きしょうもん
相対の契約文書で、内容を確実にするための誓約書が起請文です。誓約の内容を書いた「前書まえがき」の部分と、違反したら神仏の罰を受けるという起請文言から成り、料紙には、「牛玉宝印ごおうほういん(牛王宝印)」と呼ばれる、寺社が発行する護符が多く用いられます。「牛玉宝印」は、霊力があると考えられた牛王(おう:牛の胆石を原料にした薬)を混ぜた朱で宝珠を押し、「〇〇(寺社の名)牛玉宝印」などの文字を書いた、あるいは刷った物で、起請文はその裏に書かれることが多いです。契約の内容を担保するのが、国家ではなく神仏だとも言えると思います。

菊王丸等連署天罸きくおうまるられんしょてんばつ起請文きしょうもん/永隆寺牛玉宝印えいりゅうじごおうほういん
菊王丸等連署天罸きくおうまるられんしょてんばつ起請文きしょうもん/永隆寺牛玉宝印えいりゅうじごおうほういん
(図27) 18「菊王丸等連署天罸起請文/永隆寺牛玉宝印」  康永二年(1343)二月十五日

5.戦国・織豊期の大名文書

戦国期には、各地の戦国大名がそれぞれ独自の文書を出すようになります。大名自らの名で出す直状の書状系が主流です。特に印を押した「印判状」が戦国大名に特徴的な物とされるため、それについて取り上げ、また書状についても、多様なあり方の一端を紹介しています。

<印判状>

戦国大名に特徴的な文書として、印を押した「印判状」が有名ですが、これも花押の代わりに押したものが多く、様式的には大部分が書状系です。

武田たけだ信しん玄げん朱印状しゅいんじょう(複製)
(図28) 31「武田信玄朱印状」複製 (原品:国立国会図書館蔵)
(永禄七年(1564))正月二十二日
日付の前に、眼病のために花押を書かず印を用いる、と言い訳が書いてあり、この印が花押の代わりであることが分かります。

伊達政宗だてまさむね知行充行朱印状ちぎょうあてがいしゅいんじょう
(図29) 37「伊達政宗知行充行朱印状」 天正十四年(1586)九月五日
知行充行という公的な文書ですが、様式的には書状系で、実名の下、すなわち花押を書く位置に印が押されています。印を用いることで公的な意味を示したとも考えられます。

近世統一政権を作った織田信長と豊臣秀吉も印判状を用いますが、それらは、様式的には室町幕府将軍の御内書の系譜を引く書状系のものです。

織田信長おだのぶなが朱印状しゅいんじょう
(図30) 35「織田信長朱印状」天正九年(1581)九月七日
室町将軍の御内書の系譜を引く書状系の様式で、実名を書かずに印だけを押す尊大な様式です。

豊臣とよとみ秀ひで吉よし朱印状しゅいんじょう
(図31) 40「豊臣秀吉朱印状」(文禄元年(1592))十二月二十一日
様式的には織田信長の朱印状とほぼ同じですが、料紙が巨大化し、また「大高檀紙」と呼ばれる厚手で皺のある紙を用いています。

しかし、関東に勢力を持った北条氏の印判状は、日付上に公印を押す物で、律令文書的な性格が窺えますが、日本の古代文書の影響というより、当時の東アジアの文書との共通性が考えられます。

北条ほうじょう家伝けてん馬ま手形てがた
(図32) 38「北条家伝馬手形」 天正十五年(1587)八月十一日
日付上に伝馬用の公印を押した文書で、北条氏は個人印との区別が一貫しています。

<掟書>

収録した「石田三成掟書」が印のある文書なのでここに掲げましたが、花押で出されることも多く、様式的には他の印判状とは異なる物です。「掟書」は、時代に関わらず発行される文書と言えます。制札として木札で出されることもあり、そのような掲示は古代からあります。法令などの読み聞かせに淵源するものでしょう。

石田三成いしだみつなり掟書おきてがき
(図33) 39「石田三成掟書」天正十七年(1589)十月六日

<書状>

戦国期には、多くの文書が書状の形で出されるようになるため、公的なものから私的なものまで、内容や機能は多様です。基本的な書式には大きな差がありませんが、料紙や文字など細かい所で差が付けられています。

大友宗麟おおともそうりん( 義鎮よししげ) 感状かんじょう
(図34) 32「大友宗麟(義鎮)感状」(永禄十二年(1569))八月十六日
家臣の戦功を称える文書で、様式的には「恐々謹言」で結ばれる書状ですが、料紙には雁皮の切紙が使われており、当時の一つの様式であったようです。

惟任光秀これとうみつひで書状しょじょう
(図35) 33「惟任(明智)光秀書状」天正五年(1577)ころ
楮紙を用いた通常の書状。服属した現地の武士に宛てた政務の伝達で、相手の名前を「小左馬」(小畠左馬助こばたけさまのすけ)と略しています。

羽柴秀吉はしばひでよし書状しょじょう(亀井茲矩宛)
(図36) 34「羽柴秀吉書状」(亀井茲矩宛)(天正七年(1579)ヵ)六月二十七日
対等な同盟関係にあった武士に宛てた親密な内容の書状で、署名を丁寧に書き、相手の名前は、「殿」も漢字で書いた丁寧な書き方です。

羽柴はしば秀ひで吉よし書状しょじょう(直江兼続他宛)
(図37) 36「羽柴秀吉書状」(天正十一年(1583))四月二十九日
秀吉が越後の上杉景勝に宛てた書状。形式上の宛先は二人の家臣。料紙は雁皮の切紙で、大名間で交わされた文書にはよく用いられました。

伊達政宗だてまさむね書状しょじょう
(図38) 41「伊達政宗書状」16世紀末〜17世紀初(年未詳)十月四日
お茶会の誘いという私的な内容の書状。自筆で、仮名交じりの柔らかい筆跡で書かれています。

<小括>

以上、武家の文書を軸に、およそ時代の変化を追って解説してみました。続く時代、近世の文書も基本的にはこの延長で、書状系が基本でした。

近代に入ると、「王政復古」を標榜した明治政府は、古代の律令文書になぞらえた有印文書を復活させ、公文書は再び「『官』の文書」が基本になります。しかしその押印方法は公式様文書の物ではなく、日付上に朱方印を押すという、日本では16世紀に北条氏が印判状に取り入れていた、中国、韓国、ベトナムなどの東アジア漢字文化圏で広く採用されていたものでした。
(2018年の企画展示「日本の中世文書」では、以上のような日本の文書史の理解を、下図のようなパネルで示しました。)

6.集会・会議と儀式の文書

以上で、一応古代から近代までの日本の文書史の流れをご説明しましたが、この流れの中には位置付けにくかった文書も収録しています。
寺社の文書と、朝廷の文書なのですが、差出-充所という一対一の関係だけではなく、集団で行われる集会や会議、儀式を背景として作られた文書であることが特徴です。

<寺社の文書>

仏教寺院(ないし、中世は神仏習合なので寺社勢力)は、公家、武家と共に中世の国家権力を形成する一部であり、また在地にも根を張る存在でしたので、その文書は多く、また独特なものがあります。特徴の一つは、「大衆だいしゅ」という平等原理に基づく自治的な集団が力を持ったことで、集会しゅうえと呼ばれる全体会議で物事が決められました。ここでは、その決定を知らせる文書を取り上げています。

山門さんもん三院さんいん別当代べっとうだい執行代しゅぎょうだい連署れんしょ書状しょじょう
(図39) 28「山門三院別当代執行代連署書状」(天文五年(1536))六月八日
署名しているのは、比叡山延暦寺を構成する三塔(東塔・西塔・横川よかわ)の代表者。

<朝廷行事の文書>

朝廷の文書には、官僚機構における意思伝達の他、行事関係の文書もあり、「宣命せんみょう」を取り上げています。現在の「祝詞のりと」に似た万葉仮名の文で、儀式において読み上げるための文書です。

後奈良(ごなら)天皇(てんのう)白馬節会(あおうまのせちえ)宣命(せんみょう)
(図40) 29「奈良なら天皇てんのう白馬あおうまの節会せちえ宣命せんみょう」 天文十七年(1548)正月七日

もう一つ、これも読み上げることを前提にした文書ですが、改元で新たな年号を決める会議に提出された年号の案「改元かいげんかんもん」を、読み上げを担当した公家の日記に記された写しから掲載しています。読み上げるための、返り点や送り仮名も見られます。

(図41) 5 「年号勘文」(「経光卿改元定記つねみつきょうかいげんさだめき」より)仁治四年(1243)二月二十六日

この他、ここで取り上げていない中世文書のジャンルとしては、荘園の経営に関わる文書、「地下文書じげもんじょ」と呼ばれる村の内部で作られた文書、宗教関係の文書、外交関係の文書、など多くの分野があるのですが、現在の所は収録できていません。それらについては、参考文献に挙げた書籍などで補っていただければ幸いです。

<付:散らし書きの読み方>

最後に、女房奉書などに見られる「散らし書き」について、複雑な例によって読み方を示しています。天皇が自筆の書状を書く際にも、散らし書きが用いられることがありました。

42「後土御門天皇自筆書状」は、後土御門天皇が日野富子に宛てた書状で、日付も署名もありませんが、自らの意思を幕府に伝えようとした物です。

(図42) 42「後土御門天皇自筆書状」 (文明十二年(1480)二月十一日)

【参考文献】

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